五個荘平阪町(以下、平阪町)は、箕作山山麓に位置し、33世帯・119人が暮らす町である。高齢化率は五個荘地区のなかでは比較的高く、38.65%である。
「平阪」という地名の起源ははっきりとわからないが、『平阪字誌』(平成12年(2000年)3月31日発行)によると、箕作山麓の比較的平べったい坂に位置していたところから、いつの頃からか「平坂」という地名がついたようであると記されている。
また、「平阪は、箕作城を攻略するため、信長や秀吉が馬で駆け抜けたと考えられる歴史的な地」であり、八幡山の南側の山道に埋もれている多数のお地蔵様は、「当時の戦死者を弔ったものではないだろうか」と記されている。
なお、「平坂」の「坂」の字は、現在「阪」であるが、いずれが正しいのかは不明である。
明治6年3月に作成された「地券取調分間山総絵図」では「近江国神崎郡平坂村」と記されており、この頃は「坂」であった。
平阪町では、五個荘地区の他の町にはない行事がある。
それが、元旦に、八幡神社の鳥居の前で、町民が記念撮影をする「元旦のつどい」である。
以前は、元旦の朝にそれぞれ八幡神社にお参りをし、それから隣近所に新年の挨拶に行っていた。それぞれでお参りしたり、挨拶に行ったりするので、出会えたり、出会えなかったりする。
そこで、「元旦にはみんな一緒に集まって新年の挨拶をしよう」と始まったのが「元旦のつどい」である。
そして、せっかく集まったので記念撮影をしようということになった。
いつから、この行事が始まっただろうか。
平阪公会堂(自治会館)に飾られている町内の様子の写真では、平成7年くらいからの写真が残っている。
しかし、『平阪字誌』の「町づくり」のページの「活動状況」には「新年のつどいについては、毎年ほぼ同じ内容で実施されているため省略する」と記載されていうことから、これを元旦のつどいと考えると、少なくとも『平阪字誌』の発刊された昭和61年には、 「毎年」といわれるほど長く続く行事である。
平阪町の方々が元旦の朝9時に八幡神社に集合し、「元旦のつどい」は始まる。
「平阪まちづくり委員会」の会長の司会・進行のもと自治会長が新年の挨拶をする。その次に、その年の春に中学生になる小学校6年生の子どもが、代表で1人新年の抱負を述べる。そして、御神酒で乾杯し、するめをいただくのである。
全員で記念撮影をし、そのあとに、お地蔵様と小松寺、明珠寺の2つの寺院をお参りするのである。
自治会長の佐生伊三夫さんは、「元旦に一同に会するので、みんなで挨拶できます。字全体の記念撮影になっています」と話す。
そして、もうひとつ他の町にはない、あるいはすでになくなった行事が「やいごめもらい」である。
「やいごめもらい」は、『平阪字誌』によると、次のような行事である。
苗代づくりの後の5月5日を苗代に雑草の芽が出ないように、苗がうまく育つように願いを込めて、水口にお供えをする「たねやすみ」をする。
この日に苗と菖蒲をちまき・塩鯖・筍・ワカメなどと一緒に箕の中に入れ、各家のオイエ(農家の広間)に供える「たなかみさん」を行う。その残りのちまきを、ほうらく(土鍋の一種)で煎ったり、焼いたりして加工し、6㎝ぐらいの棒状にしたお菓子を作る。このお菓子が「やいごめ」である。
そして、子どもたちが「たねやすめ」の際にこの「やいごめ」をもらいに各家を周るのである。
大正10年(1921)頃から昭和20年代には、子どもたちは「ヤイゴメオクレ、コメオクレ、イッタラカエスデヨケオクレ」と言いながら各家を周り、カリントウと称する黒砂糖を表面に塗った6㎝程の棒状の菓子3~5個を自分の紙袋に入れてもらったという。
おやつの少ない時代に、子どもたちにとっては楽しみの一つであった。
この「やいごめもらい」が始まった時期は、不明とのことであるが、明治時代には行われていたという。戦時中は中断されたが、戦後、昭和30年過ぎに字の総会で復活が決まったという。そして、少しずつ形を変えながら現在も続いているのである。
現在、「やいごめもらい」に参加するのは、3歳以上小学校6年生までの子どもである。3歳以上という条件になったのは平成元年からである。
新緑眩しい5月5日の子どもの日の朝7時30分に、子どもたちは農事作業所前に集まる。担当するのは子ども会の役員さんたちである。
そして、列になってスタートし、各家を「おはようございます」と言って訪問する。そして、準備されたお菓子をいただき「ありがとうございます」と御礼を言って、平阪町の全世帯を周るのである。
各家では、子どもたちの訪問を受け、1人100円程度のお菓子を渡す。できるだけ同じお菓子にならないように気を配る。
町内の子どもたちと顔を合わせる機会も少なくなってきた。「やいごめもらい」で子どもたちが訪問してくれると、町内の子どもたちの顔と名前が分かる機会ともなっている。
平阪町の子どもたちの10年間の成長を年に1回見ることができる大切な機会である。
今年はコロナ禍で、子どもたちは全員マスクをして「やいごめもらい」に周った。
「子どもたちの表情が分からなくて少し残念でした」と民生委員・児童委員の奥川正己さんは話す。
実は、戦時中以外でも「やいごめもらい」を中断したときがあった。それは平阪町の3歳以上小学校6年生までの子どもが1人になったときである。
現在、平阪町の小学生は10人。新家(しんや)ができて子どもが産まれ、子どもの数も少しずつ増えている。
「元旦のつどい」と「やいごめもらい」は、平阪町の方々が毎年元旦に顔を合わせ、そして春には子どもたちの成長を喜ぶ。
「人」を大切に想う平阪町の尊い営みである。
(聞き手:川嶋重剛・奥村 昭)
(報告:社会福祉法人六心会 地域支援担当 地域支え合い推進員 奥村 昭)
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