歴史を受け継ぎながら、新たな町の風景を描く~五個荘和田町~

五個荘和田町(以下、和田町)は、和田山と愛知川の間に位置し、和田山の東の山麓に広がる。

人口は96人、38世帯で、このうち2世帯は外国人世帯である。高齢化率は38.7%で五個荘地区でも高齢化率が高い。自治会加入率は100%の比較的小規模でまとまりがある自治会である。

おしょうらいさん

和田町の歴史上の大事件が、織田信長の近江侵攻である。

和田山の地勢が中世の戦略上の要所となり、和田山城が築城されたという。

和田山城は、佐々木六角氏の一族である和田氏の居城であり、六角氏の観音寺城の支城であった。

永禄11年(1568)9月12日(午後2時)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛する際に、織田信長の武将、美濃三人衆といわれる稲葉伊予守、氏家常陸介入道、安東伊賀守の勢力が和田山城に攻めかかった。

和田山城築城より落城に至るまで、この城に屯した兵士は6000人ともいわれその内2000人余りの兵が亡くなった。

この兵の鎮魂のため、和田町では、毎年お盆の8月15日に和田神社の行事として「おしょうらい」(お精霊)を営んでいる。

和田神社の鳥居

おしょうらいは、普通は寺院で行うものであるが、和田山城の戦で戦死した兵の御霊を供養するために、神社で「おしょうらいさん」をするのである。

では、この「おしょうらいさん」とはどんなことをするのだろうか。

中村喜蔵さん(95)にお話しを伺った。

和田山は南山と北山の2つあり、南山の山頂にあった「和田の笠松」から30mほどくだったところにある「お精霊岩」という夫婦岩の前で、元火を炊く。

「和田の笠松」とは、『近江興地志略』(県指定文化財。膳所藩士・寒川辰清が享保19年(1733)3月に完成させた滋賀の地域史。)に「笠松、和田村にあり。古蹟なり。古歌に『秋風の吹き来る峰の村雨にさして宿かる和田の傘松』といえり」と記されている銘木であったという。

炊いた元火は、和田神社の「宮世話」と呼ばれる神社の役と、「前髪」とよばれる小学校高学年から中学生の年齢の子どもが捧げ持って、南山を下山する。

そして「お旅所」の坂下で松明に元火を移す。燃えさかる松明をかざして「おしょらーい」と叫びながら拝殿を7回かけ廻った後、坂段をかけおりて鳥居前で待っている氏子の松明に火を移す。

この坂段をかけ降りる

15本から20本の松明を持ち、字の中を行列しながら歩き、字の東を流れる横戸井川にかかる精霊橋まで行って、松明を燃やし切ってこの行事は終わる。

精霊橋で松明を燃やし切る

「おしょうらいさん」がいつから始まったのかは定かでない。

織田信長の近江侵攻から数えると約450年、和田神社は明和元年(1764)12月3日に建替えされているので、この頃から数えても約250年である。

いずれにしても、和田町の人々による悠久の鎮魂の営みである。

しかし、一度だけ中止になったことがあった。

大正8年(1919)の8月15日は、未曽有の大雨だったので止むなく中止した。すると、その年に原因不明の疫病が流行り、字で8人も人が亡くなった。

この事態に、「おしょうらい」を中止したためお怒りにふれたのではないかと考え、以来、現在までどんなに雨が降っても必ず毎年続けられているのである。

中村さんは、「昔は子どもが中心となって15本~20本の松明をもち、地蔵堂から横戸井川のしょうらい橋まで行列をしました。今は、子どもが少なくなり、松明をもつのは主に大人で、松明の数は10本位です」と話す。

和田町の最高齢の中村さんは、大正14年(1925)11月30日生まれ。本当の誕生日は12月5日であったが、12月生まれであると兵隊に行くのが1年遅れるために、親が早く行かようと11月生まれにして届けられたという。

戦中は「満鉄」(南満州鉄道)の技術畑で仕事をしていたが、昭和20年(1945)7月6日に現地入隊した。翌月の8月15日に終戦となり、ソ連に抑留された経験を持つ。

昭和23年(1948)に「辰春丸」で博多港に帰国した。帰国時に復員手当として300円をもらい「喜んで博多で弁当とリンゴを買ったら300円した。全部使ってしまい、物価の変動にびっくりした。旅費は特別列車の為、復員証明書だけで乗車できました。」と当時のエピソードを語ってくださった。

焼祭(やけまつり)

もう一つ、近代の和田町の大事件があった。

「和田の大火」である。

明治18年(1885)の5月2日(土)の昼下がり、午後2時頃に地蔵堂の横の屋敷にあった家から出火した。

出火の原因は、七輪であられを煎ろうと思った一人暮らしのお婆さんが、目が悪かったため七輪をひっくり返してしまったという。

それが火元になり、地蔵堂から和田山の方向に向けて燃え広がり大火となった。

この日は、和田町の人たちは能登川の伊庭の坂下し祭りや愛知川のお寺の行事に出かけていて、ほとんど留守であった。このため、火が燃え広がり、和田町の多くの家が焼失した。

これを「和田の大火」とよび、この大火を教訓に、和田町では「焼祭」(やけまつり)を行うようになった。

「焼祭」は、大火の前日の5月1日の夜に、和田神社に左右50灯ずつの百灯をあげ、太鼓と鐘を鳴らして防火祈願をする。

百灯と提灯

大火翌日の5月3日の朝6時に特設消防団が出初式を行う。消防団の出初式はふつう1月に行うが、和田町ではこの日に行うのである。

自治会長のもと団長以下特設消防団は15名で構成されている。地蔵堂の前に集合して防火訓練(放水訓練)を行う。

地蔵堂

出初め式が終わった後は、和田神社に参拝してお酒を供え、直会(なおらい)で頂く。

「焼祭」がいつから始まったのかは定かではない。

自治会長の中村稔さんによると「火災以降となれば、100年以上は続いているのではないか」と話す。

ふれあいサロンと喜楽会

「おしょうらい」でいにしえの兵を鎮魂し、災いをもたらした歴史の教訓を今に伝え続ける和田町。

和田町の人々の、命を尊び、暮らしの安寧を願う気持ちは、和田町の高齢者の暮らしにも向けられている。

75歳以上の方々を対象としたふれあいサロンは、年6回開催されている。

自治会長・評議委員や民生・児童委員・福祉委員が主体となり6~8名のスタッフで運営する。和田町公会堂で演芸やゲーム、食事等を楽しむ。

スタッフを含めると25~26人が公会堂で楽しいひと時をすごす。

始まったのは平成の五個荘町時代である。約四半世紀続いている。和田町にとって当たり前の風景となった。

自治会長の中村さんは「みんな喜んで来てくれます」と話す。

また、2~3年前から「喜楽会」という60歳以上の女性の会ができ、和田町公会堂で毎月開催されている。

毎回15~16名の方が集まり、折り紙や趣味の活動などを行っている。活動内容は当番になった方が考えているそうだ。

和田町の新たな暮らしの風景である。

歓天喜地

和田町に新しい場ができた。

平成28年(2016)夏に、京都出身のミュージシャン、ラジオパーソナリティーの北村謙さんが、昭和7年に建てられた古民家を改修して、音楽や芸術などを楽しんで交流する「大人の遊び場」として「歓天喜地」をオープンしたのである。この古民家の家主が北村さんと知り合いであったという。

ちなみに「歓天喜地」の意味は、広辞苑によると「(天地に対し歓喜する意)非常に喜ぶこと・大喜び」とある。

最近では、「落語・音楽会」として桂九雀さんの落語と北村謙さんの音楽がコラボする「落語・音楽会」が催されている。しばしばレコーディングも行われている。

和田町の住民にはイベントの割引券が配られるという。

開設から5年を迎えようとしている。「歓天喜地」もまた、和田町の新たな景色をつくっている。

歓天喜地

ご神木に見守られ

和田神社の本社天満宮の玉垣前には、樹高28メートル、樹幹周囲3.82メートルの「滋賀の銘木誌」にも掲載されている威厳あるご神木が和田町を見下ろす。

和田町のご神木

和田町も少子高齢化がさらにすすんでいく。「おしょうらい」、「焼祭」といった神社にまつわる歴史的な営みをどう受け継ぐかが課題だ。

自治会長の中村さんは、令和元年に神事の運営にかかる見直しを行い、氏子の当番制から氏子総代と役員による6名の運営体制とした。

そして、「ふれあいサロン」「喜楽会」、そして「歓天喜地」といった新たな営みも生まれている。

歴史を受け継ぐための努力と、新たな営みたちが溶け込みながら、新たな和田町の風景が描かれていく。

その姿をご神木は見守り続けているだろう。

(取材:川嶋重剛、奥村 昭)

(報告:社会福祉法人 六心会 地域支援担当 地域支え合い推進員 奥村 昭)