「コミュニティ食堂てんびんの里みなみ」の会場”結神社”って?

「コミュニティ食堂てんびんの里みなみ」の会場として、神祭長さんや川並町自治会の方々のご厚意により使用させていただいている結神社。

結神社はどんな由来がある神社なのだろうか。

 

『川並のあゆみ』(平成11年3月30日、五個荘川並区発行・川並愛郷の会編集)(以下、「あゆみ」)には、次の記述がある。

「結とは『天地万物を産(うむ)』とか、生ずると云う霊妙なる神霊と解釈する言葉であり、産霊(むすび)である。」

神のみたまを産むという産霊(むすび)が「結」となったということである。

そして、「当社草創の時、天智天皇の第二皇子(川嶋の皇子)が壬申の乱を避けられ、この郷に神霊を感得され(西暦672年)

『此の勝地は譽田別命(ほむだわけのみこと)和魂矣須比の清地である。』

と云われたことに基づくものと郷土の古書にある」とされている。

飛鳥時代の672年に「壬申の乱」から川並に避難された川嶋皇子が、神霊を感じたことが結神社の由来になっているということである。

結神社の扁額「武須比神社」の文字

結神社の鳥居には「武須比(むすび)神社」と書かれた扁額がある。

この文字は明治14年3月に有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう)が書かれて結神社に寄進されたものである。

この立派な扁額も、先の大戦の際に金属回収の危機にさらされたという。

 

 

 

 

「あゆみ」には、「現今鳥居に掲げられている扁額が現存している経緯に就いて触れておく」とし、

結神社の社掌(神職の職名のこと)と氏子総代と宮内庁とのやりとりが原文で収録されている。

これを読むと、昭和18年2月6日に結神社の社掌と氏子総代は高松宮附宮内事務官(高松宮に仕えていた宮内庁事務官)宛てに

扁額の文字は有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう)によるものを証明し神社の宝にとして保存したいとのお願いをされた。

そして、2月15日には親王によるものは事実であり、扁額の保存に関しては知事の指示を受けてほしい旨の回答がされ、金属回収の危機を免れたようである。

本殿

本殿は明治11年(1878年)に、拝殿は明治14年(1881年)に建設された。

「あゆみ」によると「当時、日野や八幡をはじめ近隣のどこの村よりも後塵を拝されて輩出された川並の近江商人は、ようやく功を遂げられ充実期を迎えた時期であっただけに、一村落の産土の社としては、目を見はるような豪華なたたずまいを見ることができたのであった」とされている。

今の結神社は、川並出身の近江商人が成功して、長年にわたる川並の人々の信仰を大切に思い、建設されたのである。

子ども食堂のスタッフの方々が「昔は遊び場だった」と語る結神社。

そして、2020年。コロナ禍のなか、結神社は五個荘の子どもたちを見守ってくださっている。

 

「あゆみ」に掲載されている結神社と境内内の概要(抜粋)

〇結神社 本殿 拝殿 元八幡宮

御祭神 譽田別尊應神天皇

建 物 本殿 流造り桧皮葺 銅板覆

拝 殿 入母屋造り桧皮葺 銅板覆

境内地 6258平方メートル 1896坪

建設年 本殿 明治11年(1878) 拝殿 明治14年(181)

社号額 武須比神社有栖川宮幟仁親王御筆 明治14年3月

※「あゆみ」には境内社の「若宮神社」(元若宮八幡宮)、「若櫻神社」(元山下八幡宮)、「環神社」の概要も掲載されている。

(社会福祉法人六心会 地域支援担当 奥村 昭)