六心の訓(おしえ)

はい……………素直な心

すみません……反省の心

ありがとう……感謝の心

私がします……奉仕の心

どうぞ…………互譲の心

おかげさまで…謙虚な心

 

この六つの心=六心の訓(おしえ)が五個荘に登場したのはいつだろうか。

1955(昭和30)年1月1日に旭村、南五個荘村、北五個荘村と安土町清水鼻の合併により五個荘町は誕生した。

この年の2月15日に小杉守一初代町長の「御挨拶」から始まる「五個荘町報」が創刊され、以降、2004(平成16)年12月に最終号となった「まちの情報誌 ごかしょう」まで259号を数えた五個荘町の広報誌を調べてみた。

すると、中村哲三町長(第5代:1971(昭和46)年2月1日~第9代:平成3(1991)年1月31日)時代の1977(昭和52)年1月15日発行の「広報 ごかしょう」第47号「新年のあいさつ」にこんな件があった。

「ある本の一節に今の世の中は次のような心が大切なことだと書かれていました。

一つ有難とうと言う感謝の心

一つ私し(ママ)がやりますと言う奉仕の心

一つおかげ様でと言う合掌の心

一つすみませんという反省の心

一つはいと言う素直な心

以上の事項を良くかみしめ味わってこそ資源の無い国民として物の有難さ、助け合う力が湧きいづるものです。」

この時中村町長は、「ある本の一節」として5つの心=五心を紹介している。

同年6月1日に発行された「広報ごかしょう」第48号には、「第4回 町長を囲む懇談会」の記事があった。

この記事には、1977(昭和52)年度の五個荘町の「社会教育活動の柱」が「六心運動」としてこれを図示するとともに、中村町長が、「住民一人ひとりがこの運動を実践し、うるわしく、明るい人間関係が生まれることを念願」されたと記述されている。

出典:「広報ごかしょう」第48号(昭和52年6月1日発行、3頁)

併せて五個荘町の「町政要覧」を調べてみた

1975(昭和50)年発行の町政要覧は「六心」は登場しておらず、1981(昭和56)年発行の町政要覧の第1頁に「町章・町章の由来 六心運動・五個荘町歌」として「六心運動」が登場するのである。

そして同年8月1日発行の「広報 五個荘」第49号から1985(昭和60)年1月1日発行分の第81号まで「六心運動」が広報誌の表紙に掲載されていた。

ところが、「六心運動」は1985(昭和60)年5月1日発行の「広報 五個荘」第82号から「六心の訓」(ろくしんのおしえ)となるのである。

この「六心の訓」は、五個荘町が合併で東近江市となる前年の2004(平成16)年12月の最終号まで、広報誌の下欄やトップページに、欠かさず掲載されていたのである。

つまり、当時の中村哲三町長が1977(昭和52)年に社会教育活動の柱として「六心運動」を提唱したことにより誕生し、1985(昭和60)年5月には「六心の訓」の実践運動に一部変更し、合併により閉町するまで27年間に亘り、町あげての住民運動として展開され定着していったのである。

しかし、ここで2つの疑問が生まれる。

一つは「五心」がなぜ「六心」となったのかという疑問である。

もう一つは、六心「運動」がなぜ六心の「訓」になったのかという疑問である。

町行政に永年携わっていた、五個荘地区住民福祉会議の深尾浄信代表に聞いてみた。

まず、なぜ「六心」なのか。

深尾代表によると、「五心」は「日常五心」という言葉もあるように仏教の日常における行を示す用語でもあり、これを行政として町民運動にするには宗教的違和感が生まれるかもしれない。そこで、議論を重ねて、譲り合う、思いやりをもって助け合うという「互譲の心」を加えて「六心」になったという。(当時の社会教育担当者とともに考案した)

この時期は、いわゆる「オイルショック」後の不況に世の中があえいでいた時期である。

1973(昭和48)年に田中内閣は「福祉元年」を宣言し、高度経済成長の果実を社会保障にあてようとした。しかし、第4次中東戦争に端を発する「オイルショック」によって高度経済成長は終焉し、インフレ、不況といった日本経済が低迷する時期に突入していく時期であった。

このような時代を背景として、中村町長は1977(昭和52)年1月の「広報 ごかしょう」第47号の「新年のあいさつ」で次のように述べている。

「今このような社会情勢の内にあっては景気の回復を望み生活の安定を期してゆく事はお互い一人一人が広く世界の現状を認識し資源の無い国の国民としてお互いに助け合い相手の人格を尊重し自分を磨き信頼される人間に成長することではないでしょうか」

ここには、近江商人の精神を受け継ぐ、五個荘町の町長としての想いも垣間見える。

そして、冒頭の「5つの心」を紹介するのである。

当時、町長として約9千人の五個荘町民の暮らしを、町民みんなの手でより良いものにしていきたいという想から考えに考えぬいた町長の「魂のメッセージ」といえるのが「六心運動」であったのではないだろうか。

次に「運動」から「訓」となった経緯である。

同じく、深尾代表に聞いてみた。

深尾代表によると、五個荘町は町制20周年を記念して町の花を「さつき」に、町の木を「五葉松」と定めていたが、「町民憲章」なるものはなく、他市町に見られる憲章制定の声があった。町制30周年を迎えるにあたり中村町長は、「六心」を町民憲章としていくべき考えを職員幹部に提案された。

当時民生課長であった深尾代表は、町長が推進してきた六心「運動」を六心の「訓」(おしえ)としてはどうかと提案したという。

そして、1985(昭和60)年度の町の方針を「六心の訓を合言葉に心豊かなまちづくり」とし、町長は「三十周年を記念に六心の訓を合言葉とし、さらに推進をして参ります」という抱負を述べているのである。

つまり、町制30周年を機として、町民一人ひとりが主体的に実践する「人としての道しるべとすべき六心の「訓」としたのである。

「六心の訓」が記された色紙は額に入れられ、当時2540世帯の全世帯に配布された。

(所蔵:深尾浄信氏)

社会福祉法人六心会の初代理事長堤誠治氏はこの訓に共鳴し、法人の名称を「六心会」にされたと聞く。

この「六心の訓」を基調として、六心会は、高齢者介護や社会福祉の理念や制度などの進展に応じて「六心」に意義付けし、現在、「受けいれる心」「向上する心」「感謝する心」「支える心」「愛おしむ心」「共鳴する心」の「六心」を実践訓としている。

五個荘が大切に培ってきた「六心の訓」を今日的な課題を踏まえて見つめ直し、一人ひとりが自分のものにしていく。

コロナ禍にあっては、そんな実践、営みが必要になってくるのではないだろうか。

(社会福祉法人六心会 地域支援担当 奥村 昭)